丑の刻参りとは、丑三つ時に神社へ参り、恨む相手に見立てた藁人形へ五寸釘を打ち込むとされる呪詛の呼び名です。千葉県松戸市では2022年6月、藁人形が神木に打ち付けられているのが相次いで見つかりました。プーチン大統領の顔写真が貼られており、72歳の男性が摘発されています。明治から現在までに新聞・雑誌で報告された事例は、80例以上にのぼるという。高度経済成長期以降には、五寸釘とセットで売られる商品まで確認されているそうです。國學院大學の鳴海あかり氏は2024年、論文「いわゆる『丑の刻参り』の完成 ─妬婦・藁人形・呪釘─」を発表しました(『國學院雑誌』第125巻第3号、pp.43-62)。この論文を読むと、驚く事実が見えてきます。「わら製の人形に釘」という組み合わせは、実は近世の途中まで存在しなかったのです。都市伝説ラボでは、この論文を軸に丑の刻参りが今の形へたどり着くまでの過程を、初出史料から一つずつ確認していきます。
この記事でわかること
- 丑の刻参りは中世以前、「丑の刻に参る」、「女性の嫉妬」、「神仏への釘」、「人形への釘」という、4つの別個の観念だったこと
- わら製の人形の使用が確認できる最古の記録は1783年(天明3年)の狂歌集であること
- 近世初期には人形は登場せず、釘は神木そのものに打ち込まれていたこと
- 2022年の摘発事例や明治以降80例以上の報告など、現在まで続く呪術であること
※本記事は2026年最新の学術論文をもとに整理した読み物です。呪術の実行方法を解説したり、実践を推奨したりするものではありません。
丑の刻参りとは?-現代に伝わる呪術の定義と今も続く報告
丑の刻参りとは、丑三つ時(現在の午前2時ごろ)に神社へ参り、恨む相手に見立てた人形へ釘を打ち込む呪詛です。江戸時代の草双紙や随筆で繰り返し描かれ、明治以降も新聞・雑誌の記事として報告が絶えませんでした。なぜなら、それだけ強い執着や恨みという感情が、時代を超えて存在し続けたためでしょう。國學院大學・鳴海あかり氏の論文の注記によると、丑の時参りが行われたとする報告は明治から現在まで80例以上確認されています。出典は鳴海(2024)(https://k-rain.repo.nii.ac.jp/records/2000278)です。高度経済成長期以降には、嫌がらせとして釘を刺した人形を送りつける例もあった。道具一式をあらかじめセットにして売る商品まで存在したという。
千葉日報オンラインが報じたところによると、2022年6月に千葉県松戸市の複数の神社で、藁人形が神木に五寸釘で打ち付けられているのが相次いで見つかりました。ロシアのプーチン大統領の顔写真が添えられており、松戸市在住の72歳の男性が建造物侵入・器物損壊の疑いで逮捕されています。国立国会図書館の蔵書検索で明治期の新聞縮刷版の見出しを追ってみると、似た事件が特定の時代に偏らず断続的に報じられ続けてきたことがうかがえます。決して過去だけの話ではありません。
現在イメージされる丑の刻参りは、次の4要素が組み合わさったものです。
| 要素 | 内容 |
|---|---|
| ①丑の刻に参る | 深夜(丑三つ時)に神社へ参詣する |
| ②女性の嫉妬・鉄輪 | 妬婦が鬼になるという宇治の橋姫説話 |
| ③神仏への釘 | 神木や神仏の像に釘を打って強く祈願する |
| ④人形への釘 | 相手に見立てた人形へ釘を打つ呪い |
鳴海(2024)は、これらが中世以前にはそれぞれ別個の観念だったと論じています。近世に入る過程で、まず①②③が結びつきました。④の人形――なかでもわら製の人形――が加わるのは最後だったという(鳴海, 2024, https://k-rain.repo.nii.ac.jp/records/2000278)。正直なところ、この論文を読むまで筆者も両者は最初から一体のものだと思い込んでいました。次章から、その接続の過程を史料に沿って確かめます。
宇治の橋姫伝説-女性の嫉妬と「丑の刻」が結びつくまで
丑の刻参りに「女性の嫉妬」という要素を与えたのは、宇治の橋姫と呼ばれる妬婦の説話です。最も古い形の橋姫説話には、丑の刻も人形も釘も登場しません。鎌倉時代の軍記物語『平家物語』剣の巻に描かれる原型は、こうです。嵯峨天皇の御代、ある公卿の娘が貴船大明神に7日間籠り、「生きながら鬼にしてほしい」と祈ります。姿を変えて宇治の川瀬に三七日(21日間)浸ることで、娘は鬼になったとされます。
「願クハ乍生鬼ニ成リ給ヘ……宇治ノ河瀬ニ行テ三七日浸リタリケルハ貴船大明神ノ御計ニテ彼女乍生鬼ト成ヌ又宇治ノ橋姫トモ是ヲ云トソ承ル」(『平家物語』剣の巻)
髪を5つに分けて角を作り、体を赤く塗り、鉄輪(かなわ)を頭に頂く。これは丑の刻参りを象徴する装束として有名です。しかしこの場面は丑の刻でも人形でも釘でもなく、21日間川に浸るという別の行為でした。丑の刻参りとしての要件を、まだ満たしていないと鳴海論文は指摘します。
時代が下った謡曲『鉄輪』になって、初めて「丑の刻参り」という言葉が明確に現れます。男に捨てられた女が貴船の宮に幾夜も参り、社人を通じて神託を得るという筋です。「赤き衣を着て顔に丹を塗り、髪には鉄輪を戴き、三つの足に火を灯し、怒る心を持つならばたちまち鬼人になれる」という内容でした。その後、女は鬼となって男を襲いますが、陰陽師・安倍晴明に阻まれて退散させられます。呪いの矛先は人形ではなく、女自身が鬼となって相手に直接向かう形である点に注意が要ります。御伽草子『かなわ』(元禄ごろ書写)にも「うしの時参り」と明記される同様の筋がありますが、こちらにも人形や釘は登場しません。国立国会図書館サーチで謡曲・御伽草子の翻刻を横断的に確認しても、この時期の橋姫系説話に人形が描かれた例は見当たりませんでした。
藁人形より先にあった「神仏へ打つ釘」の呪い
人形に釘を打つ行為そのものは、橋姫説話よりはるかに古くから存在します。ただし当初の対象は、わら製の人形ではなく神仏を象った像や神木そのものでした。昭和36年(1961年)の発掘調査では、奈良・平城宮跡から人形(ひとがた)が出土しています。両目と胸部に木釘が打ち込まれた木製品で、長さは約15.2cm、厚さは約0.4cmです。ヒノキ板目に顔と文字が墨書されており、8世紀後半のものと報告されています。同時期の法律書『名例律』の裏書には「厭魅(えんみ)」という呪法が記されています。人形の心臓を釘で刺し、目にも釘を打ち、手足は縄で縛る。そうして相手を病苦や死に至らしめようとする呪法で、賊盗律には行った者への刑罰規定まで存在しました。
藤原頼長の日記『台記』久寿二年(1155年)8月27日条には、興味深い記述があります。亡くなった先帝が人に乗り移り、「何者かが私を呪って愛宕山天公像の目に釘を打った。そのため私は目が見えなくなり、ついに世を去った」と語ったというのです。調べてみると、果たして像には釘がありました。頼長自身も疑いをかけられ、弁明する騒ぎになったといいます。これは人形というより神仏に類する像であり、神木に釘を打つのと同じ観念の表れだったと鳴海論文は解説しています。「神仏を象徴するものへ釘を打つことで強く祈願する」という考え方です。
寛元四年(1246年)の『勝尾寺住侶等重申状案』にも、注目すべき事件が記されます。京都四条の妙仏という人物が養子の石女を勘当したところ、石女が呪詛を行ったとされる事件です。妙仏は病に倒れ、貴船神社などに打たれていた釘のうち「貴布禰之釘」だけを抜かなかったために、結局は亡くなったとされます。この時点で、神社に釘を打って呪う行為が実際に行われていたことが分かります。ここまでの史料には、丑の刻という時間指定も、女性の嫉妬という動機も、藁人形も一切登場しません。近世初期の説教節『しんとく丸』にも、継母がしんとく丸を呪う場面があります。各所の社へ計136本もの釘を打ち込むという壮絶な描写です。ただし動機は嫉妬というより家庭内の憎悪で、対象はやはり神木・社でした。
藁人形はいつ生まれたのか-元禄から天明への大転換

丑の刻参りに人形が定着したのは、確認できる限り近世も後期に入ってからです。近松門左衛門の浄瑠璃『蝉丸』(元禄14年/1701年)を見てみましょう。宇治橋のほとりで嫉妬に燃える女性たちが、「丑の時詣」と称して神木に釘を打つ場面が描かれます。橋姫説話・女性の嫉妬・丑の刻参りという言葉が、ここではっきり接続するのです。ただし打たれるのは神木であって、まだ人形ではありません。鳥山石燕の妖怪図鑑『今昔画図続百鬼』(安永8年/1779年)が「丑時参」を取り上げた際も、添え書きに描かれるのは杉の梢に釘を打つ姿だけでした。同時代の小咄本『楽牽頭』『坐笑産』『好文木』にも、繰り返し登場するのは釘と神木のみです。
丑の刻参りに人形が初めて現れるのは、元禄期(1690年代)からとされます。浮世草子『好色万金丹』(元禄7年/1694年)や、名古屋藩士朝日重章の日記『鸚鵡籠中記』元禄10年(1697年)4月21日条に記される「木偶人」が初期の例です。縮緬の衣を着せた人形が、社で釘を打たれて発見されたという記録でした。享保15年(1730年)刊の勧化本『小夜中山霊鐘記』では、嫉妬深い妻が恨む相手の「一枚ノ画姿」(絵姿)に大釘を打ち込む場面が詳細に描かれます。ただしこれも紙に描いた絵にすぎず、わら製の人形ではありませんでした。
管見の限り、わら製の人形に釘を打ったと明記される最も古い例は1783年(天明3年)です。四方赤良(大田南畝)編の狂歌集『万載狂歌集』に記録されています。出典は鳴海(2024, pp.54-55)(https://k-rain.repo.nii.ac.jp/records/2000278)。舞台は武蔵国江戸麻布の白山稲荷です。まず白い紙に人の目を描いた人形へ釘が打たれているのが見つかり、神職が狂歌でからかって釘を抜き取ります。すると次の夜、今度は耳が描き足された状態でまた釘が打たれ、これも抜かれます。そして数日後、ついに「わらをもて人のかたちをつくりつつ」――わらで人の形を作って――釘を何本も打った人形が社前に立てられているのが見つかりました。この話は根岸鎮衛の随筆『耳袋』(1784-1814)巻四や、佐々木貞高『閑窓瑣談』(1842)巻之三にも収録されています。紙細工と藁細工が並行して登場する点が興味深いところで、鳴海論文は当時どちらの形代を使うか、まだ揺れがあった時代だったのではないかと推測しています。
1783年以降、わら製の人形を使う例が他にも見られるようになりました。本文で確認できる範囲での年代の流れを、表にまとめました。
| 年代 | 資料 | 人形の種類 |
|---|---|---|
| 8世紀後半 | 平城宮跡出土のひとがた | 木製の人形(釘あり) |
| 1155年 | 『台記』愛宕山天公像 | 神仏の像(人形ではない) |
| 1694-1730年ごろ | 『好色万金丹』『小夜中山霊鐘記』ほか | 紙製の人形・絵姿 |
| 1783年 | 『万載狂歌集』 | 紙から藁へ(最古の明記例) |
| 1806-1813年 | 山東京伝『昔話稲妻表紙』『無間之鐘娘縁記』 | わら製の人形(定着後) |
1806年の読本『昔話稲妻表紙』には、庭を掘ると呪具が埋められていたという場面があります。「大小二ツの藁人形」と釘、そして呪詛の願書までが出てきました。1813年の合巻『無間之鐘娘縁記』でも、嫉妬した娘・小雪が「此桜の木に此藁人形を打付くる」と当然のように語ります。同じ題材を参考にしたとされる1730年の『小夜中山霊鐘記』が「一枚ノ画姿」だったのに対し、この間に定番のモチーフが変わったことが読み取れると鳴海論文は指摘しています。歌川芳盛(1830-1885)の妖怪画『しん板化物尽し』も見てみましょう。釘と槌を持つ人形が「しつとのおんねん」として描かれています。図像の上でも、丑の刻参りといえば人形、というイメージが固まっていく様子が確認できるでしょう。
学術的考察-なぜ「人形に釘」が定番になったのか
鳴海(2024)は、ある移行に着目しています。「神仏を象徴するものに釘を打つ」から「相手に見立てた人形に釘を打つ」への移行です。出典は鳴海(2024, おわりに)(https://k-rain.repo.nii.ac.jp/records/2000278)。神仏の存在感が薄れ、恨みを相手へ直接ぶつける性質が強まっていったことの表れだという。江戸中期の学者・伊勢貞丈は、随筆『安齋随筆』巻之四で興味深い問答を残しています。「神は非礼を受けないはずなのに、なぜ呪いが効くことがあるのか」という問いに、次のように答えました。
「堪え兼ねて形に顕はれ態に移して恨む人を一途に悩さんと欲する執念……甚だ邪気深く盛なる故に其の強気邪気にかぶれて呪詛するなり」(伊勢貞丈『安齋随筆』巻之四)
神仏の霊験ではなく、呪う者自身の執念こそが人を追い詰める。そうした合理的な解釈です。鳴海論文はこの一節を、呪詛の言説そのものに合理的解釈を施そうとする近世人の姿勢の表れとして紹介しています。この解釈は、現代の私たちにもそのまま通じるところがあるように思う。丑の刻参りが恐ろしいのは、呪いの力自体より、そこまでの執念を人が抱きうるという事実かもしれません。
一方で、学説には幅もあります。長沢利明氏は1993年の論文で、わら以外の人形を使う丑の時参りを「派生的・変則的な形」「呪詛者の自己流の作法」と位置づけました。これに対し鳴海論文は異を唱えます。年代的には紙人形や絵姿の方が先に存在しており、その中からわら製が選び取られていったと考える方が自然だという再検討です(鳴海, 2024, 注56)。どちらの解釈が妥当かは、今後の研究に委ねられる部分でしょう。ただし少なくとも、わら製が最初からの正式な形だったとは言い切れない点は、両論とも一致していると言えます。
関連する取り組みとして、国立歴史民俗博物館の2023年の企画展「陰陽師とは何者か-うらない、まじない、こよみをつくる-」があります。謡曲『鉄輪』にも登場する実在の陰陽師・安倍晴明について、その伝説的イメージが史料の中でどう形成されていったかを検証する展示でした(国立歴史民俗博物館, 2023)。一つの「当たり前」がどう作られたかを史料からたどる研究が、民俗学の分野で近年進んでいることがうかがえます。今回の鳴海論文も、そうした学術的な流れの一つとして読むことができます。
なぜ最終的にわらが選ばれたのか。この問いについて、鳴海論文自身は「今後の課題」としています。明確な結論は出していません。紙人形と絵姿が形代として競合していた時代があったことは分かっても、わらである必然性までは史料からは断定できない。それが2024年時点の学術的な到達点です。この分野の研究資料を読み比べてみると、丑の刻参りほど広く知られた呪術ですら、細部の起源はまだ解明し切れていない部分が多いことに驚かされます。
よくある質問(丑の刻参りFAQ)
丑の刻参りとはどういう意味ですか?
丑の刻参りとは、丑三つ時に神社へ参り、恨む相手に見立てた人形へ釘を打ち込むとされる呪詛の呼び名です。ただし本記事で見てきた通り、この組み合わせが定着したのは近世後期以降でした。それ以前の「丑の刻に参ること」自体は、単なる熱心な祈願の作法として使われていたのです。
なぜ貴船神社が舞台とされるのですか?
宇治の橋姫説話で妬婦が祈った先が、貴船大明神とされたためです。加えて1246年の文書には、貴船神社で実際に呪いの釘が打たれていた記録が残ります。古くから呪詛と縁の深い神社として語られてきました。京都の代表的な怪異として、京都の都市伝説7選でも貴船の伝承を取り上げていますので、あわせてご覧ください。
藁人形はいつから使われているのですか?
管見の限り、わら製の人形に釘を打ったと明記される最古の記録は、1783年(天明3年)の狂歌集『万載狂歌集』です。それ以前の元禄期(1690年代)から絵姿や紙の人形を使う例は見られますが、わら製という明記はこの時期まで確認できません。
丑の刻参りに効果はあるのですか?
科学的・客観的に効果が確認された事例はありません。江戸中期の学者・伊勢貞丈は、随筆『安齋随筆』で興味深い説明を残しています。呪いが効くように見えるのは神仏の力ではなく、呪う側の執念が強いためだ、という合理的な解釈です。呪術としての効果を保証する立場は取りません。
丑の刻参りは今も行われているのですか?
2022年6月には千葉県松戸市で、人形を神木に打ち付けたとして72歳の男性が逮捕される事件が報じられました。明治から現在までの報告例は、80例以上にのぼるとされています。ただし神社の御神木や施設を傷つける行為は、建造物侵入・器物損壊などの犯罪に問われる可能性があります。実践や再現は一切推奨しません。
まとめ-丑の刻参りは「藁人形ありき」の呪術ではなかった
ポイントを整理します。丑の刻参りは①丑の刻に参ること②女性の嫉妬・鉄輪(橋姫説話)③神仏への釘④人形への釘という、もともと別々だった要素が近世にかけて少しずつ結びついてできた呪術でした。中でもわら製の人形は最後に加わった要素で、確認できる最古の明記例は1783年の『万載狂歌集』です。それ以前の丑の刻参りは、神木に釘を打つだけの姿でした。私たちが思い浮かべるイメージとは、やや異なるものだったのです。
鳴海あかり氏はこの論文の目的について、成立過程を明らかにすることが「藁人形に対する無用な不安や恐怖感を取り除くことにもつながる」と述べています(鳴海, 2024, はじめに)。怖がらせるための脚色ではなく、史料に基づいた成り立ちを知ること。それが、この呪術と冷静に向き合う近道になると考えます。丑の刻参りにまつわる噂を耳にしたときは、いつの時代のどの要素に由来する話なのか。都市伝説ラボでは今後も、一次資料に立ち返って確認していく方針です。
※本記事は一般的な情報提供および読み物を目的としており、個人の見解・感想を含みます。呪術の実践や再現を推奨するものではなく、神社施設を傷つける行為は犯罪に問われる可能性があります。最新情報は各公式資料をご確認ください。
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最終更新: 2026年8月/著者: 都市伝説ラボ 編集部(オカルト・不思議な話を一次資料と論文から検証するメディア)
著書: 『ネット怪異の解剖学 —— 論文で読み解くインターネット都市伝説』(Kindle) / 『今知っておきたい ネット都市伝説100』(Kindle)