人柱とは|『日本書紀』の茨田堤と、伊達市が書く意味
「人柱は実話なのか」に一言で答えるなら、実話と言えるかどうかは、その資料がどこまで書いているか次第です。人骨が見つかったと県と市が書く例もあれば、裏づける史料は見つかっていないと町や資料館が書く例もあります。この記事では、自治体・県・国・図書館・博物館が自分のサイトで書いている13件の人柱の話を、書き方ごとに並べます。
まず言葉の意味です。福島県伊達市が、人柱を説明しています(伊達市「名所旧跡を訪ねて 第1回 西念塚(伊達)」)。それによると、人柱とは「自ら生き埋めとなり、その身をカミやホトケに奉げて、災害の鎮静や疫病退散などを願うもの」です。
『日本書紀』にある茨田堤の話
最初の例は、寝屋川市が紹介する茨田堤です(寝屋川市「茨田堤(まんだのつつみ)」)。市によると、『日本書紀』の仁徳天皇11年に、淀川に日本で最初といわれる「茨田堤(まんだのつつみ)」が築かれました。築堤に大変苦労したことも、そこに記されているそうです。
同じ資料によると、探し出された二人のうち強頸(こわくび)は泣く泣く人柱となり、堤の1か所はこうしてつながりました。もう一人の衫子(ころものこ)は知恵を働かせて人柱にならずにすみ、堤を完成させたとされています。2か所の切れ目は「強頸絶間」「衫子絶間」とよばれてきました。
地名の話もあります。淀川のそばにある「太間(たいま)」は、「絶間」がなまったものといわれるそうです。市は「当地では、この難工事の物語が伝説として語り継がれています」と書いています。昭和49年(1974年)には、「淀川百年記念」事業に関連して、淀川堤防上に碑が建てられました。
市は、これを「伝説」として紹介しています。人柱になった人と、ならなかった人の両方が、同じ話に出てくる点も覚えておいてください。
人骨が出た例|上越市・猿供養寺の人柱供養堂

ここからは、人骨が見つかったと自治体が書いている例です。まず新潟県の妙高砂防事務所の説明を見ます(新潟県「人柱供養堂」(上越地域振興局 妙高砂防事務所))。地すべりの多い地域に、旅の僧が地すべりを止めるために自ら人柱になったという伝説があった、とあります。
昭和12年、客土のため田んぼを掘っていると、高さ90cm、直径69cmの大きな素焼きのかめが見つかりました。中からは座禅を組んだ人骨が発見されています。昭和36年に新潟大学が調べ、鎌倉時代末期の40代くらいの男性の人骨と判明したそうです。さらに、地元の農民なら腕の骨がもっと太いはずで、諸国を行脚する旅の僧のものであろうと「推定された」とあります。
上越市の板倉区総合事務所も、同じ話を文化財として載せています(上越市「板倉区の文化財 : 人柱塔人骨」)。所在地は猿供養寺、指定は「旧板倉町指定」です。村人たちは毎年7月に旅僧の供養を行ってきた、という記述もあります。
県と市の記述を並べる
県と市の記述は、大筋は同じでも、細部の書き方が違います。どちらが正しいとは決められないので、そのまま並べます。
| 項目 | 新潟県の記述 | 上越市の記述 |
|---|---|---|
| 発見の年 | 昭和12年 | 昭和12年 |
| 発見の状況 | 客土のため田んぼを掘っていて、素焼きのかめを発見 | 村人が正浄寺で客土を採掘中に、大甕を掘り出した |
| 調査 | 昭和36年、新潟大学 | 昭和36年、新潟大学医学部 |
| 人骨の判定 | 鎌倉時代末期の40代くらいの男性 | 関西系の40~50才位の若い男 |
| 年代の欄 | 鎌倉時代末期(判明した、と記述) | 「室町期」 |
| お堂の建立 | 伝説が本当のことであったことがわかり、人柱供養堂が立てられた | 村人たちが感謝して人柱堂を建立した |
| お堂の建て替え | 平成4年、県が隣に地すべり資料館を建て、人々の寄付で人柱供養堂も建て替えた(今のお堂) | 記述なし |
県のページには「伝説が本当のことであったことがわかり、人柱供養堂が立てられました」という一文があります。市のページの表現は「伝説が事実であったことが証明され、全国的にも珍しい発見となった」。人骨の発見が、伝説を事実と受け止める根拠になっている点は、県と市で共通しています。
城の人柱伝説|松江城・小峰城・府内城
この章の3件は、出し手も言い回しも少しずつ違います。松江城は島根県立図書館の回答で、語は「といわれる」。小峰城は白河市が「という伝説があります」と書き、府内城も大分市が「伝えられています」という語を使っています。
松江城
松江城の人柱を紹介しているのは、島根県立図書館です。資料に載る伝説として挙げたものです。回答は次のデータベースで読めます(国立国会図書館レファレンス協同データベース「「松江の七不思議」にあたるものは何か」、事例作成日2024年02月16日)。
築城当時、踊りが好きなひとりの少女が人身御供となり、城壁の下に生き埋めにされた「といわれる」という内容です。それ以来、女子が盆踊りをすると城山が揺らぐので、松江では女子は盆踊りを踊ってはいけないという禁令がでた「といわれている」ともあります。
同じ城でも、資料によって筋は違うようです。南方熊楠が1925年に書いた「人柱の話」(青空文庫)に、清水兵三君説(高木敏雄氏の日本傳説集に載す)として別の話が出てきます。堀尾氏が松江城を築く時に成功せず、毎晩その辺りを美声で唄い通る娘を人柱にした、という筋です。
小峰城
小峰城の話は、福島県の白河市が桜の案内ページに書いています(白河市「しらかわ桜情報」)。市は「小峰城の石垣が何度となく崩れ、人柱を立てることになり、偶然にも通りかかった藩士の娘がその犠牲になったという伝説があります」と書いています。
この娘を悼んで「おとめ桜」と名付けた桜が植えられたそうです。戊辰戦争で消失したあとは、二代目の「おとめ桜」が小峰城三重櫓の横で花を咲かせているそうです。
府内城
府内城では、市が見どころの一つとして「お宮祠」を挙げています(大分市「府内城跡」の見どころ(お宮祠))。天守台の西側の下にある祠で、福寿院が毎年3月に「お宮さん供養祭」を行っているそうです。
水が出て難航した工事を完成させるため、弁財天の木像を抱いて人柱になったという孝行娘が「お宮」です。府内藩のお殿様はこの場所に弁天祠を建て、命日の旧暦3月18日に舟でお参りをしたと「伝えられています」。
堤と川の人柱伝説|雁堤・彦五郎堤・西念塚

ここでは、堤や川にまつわる3つの話を並べます。
雁堤(富士川)
雁堤の話は、静岡県の富士市教育委員会のページにあります(富士市「古郡三代と雁堤」)。17世紀後半の寛文年間のころ、岩淵の渡しから富士川を渡ってきた巡礼姿の老夫婦がいました。
堤防がたびたび決壊して工事が進まないので、富士川を渡ってくる千人目の者を人柱に立てようと皆で決めた、といいます。その千人目が、この老夫婦に当たったのだそうです。
夫は白木の棺に入れられ、堤が最も破れやすい箇所の地中に埋められました。夫は、生きている間は地中から鉦を鳴らし念仏を唱え、それらが絶えたときは死んでいるだろうと言い残していました。21日間、地中から鉦の音が響いていたといいます。ページには「護所神社内の人柱供養塔」の写真が載っています。
彦五郎堤(和歌山県上富田町)
この堤は、和歌山県上富田町の文化財教室で紹介されています(上富田町「彦五郎堤と富田川土手普請」)。富田川右岸の朝来・生馬・岩田の旧三村が接するあたりの堤防を「彦五郎提」と呼ぶそうです。
彦五郎という一人の農民(彦蔵と五郎の二人という説もある)が人柱となり、埋めてからはどんな大水にも堤防は切れなかった。そんな悲しい話が伝承されている、という書き方です。
ここで町は、はっきり書いています。「いつの頃からか語り伝えられてきた話であるが、史料的にこれを裏づけるものは残念ながら何も発見されていない」。
同じ町の観光案内は、少し違う温度で書かれています(上富田町「彦五郎の碑」)。彦五郎が自ら進んで人柱となり、堤防はそのあと切れないようになったと「伝えられています」。由来を銘記した石碑も建っている、と紹介しています。
西念塚(福島県伊達市)
先ほど出てきた伊達市のページには、西念塚の話があります。川原町の大ケヤキの根本に「西念法師塚」の石碑が建っているそうです。
市は「西念法師は、江戸時代の寛文8年(1668)に摺上川の洪水を鎮めるために人柱になった方です」と書いています。川原町の人々は、毎年4月8日に供養祭を催してきたとのことです。
この人物について、市は「人柱になった方です」と事実の形で書いています。そのため、ここでは「伊達市はそう書いている」という形で受け止めるのが正確です。
道・橋・港の人柱伝説|牛頸の底なし沼・松江大橋の源助柱・経ヶ島
牛頸の底なし沼(福岡県大野城市)
牛頸の話は、川や堤ではなく、底なし沼を横切る道の話です。紹介しているのは、大野城市「底なし沼の人柱(牛頸)」のページです。
市によると、沼を横切る所だけは「いくら土を盛って道普請(みちぶしん)をしても、すぐ沼の中にめり込んでしまい」、村人も旅人も大変難渋していました。そこへ通りかかった巡礼の娘が、「皆さん方や大勢の旅人のお役に立つのであれば、私を人柱にしてください。」と申し出ます。
牛頸村には、十六歳の娘を人柱にすれば、どんな難工事も必ず完成するという言い伝えがありました。聞けば巡礼の娘も十六歳だったそうです。村人は、見ず知らずの娘を人柱にはできないと「丁寧にお断りしました」。それでも娘は自ら沼の中へ歩いて行き、とうとう底なし沼に沈んでしまった、と市は書いています。
今も六地蔵の左手に一つ離れた祠があり、それがそうだと言われているそうです。
市の解説は、この伝説の成り立ちに二つの理由を挙げています。一つは、旧筑紫郡の「十六参り」です。女性が十六歳になると宝満山(ほうまんざん)の上宮にお参りして、良縁を願う風習がありました。
もう一つは、宝満山竈門神社(かまどじんじゃ)の祭神、玉依姫命です。この神は水の神なので、市は二つを合わせて「水を治めるために、十六歳の少女を捧げるという伝説が考えられたと思われます」と述べています。
少女が命を捧げて造られた道は、県道ができたため利用する人は少なくなりました。それでも、幼稚園や小学校の通学路として使われているそうです。
松江大橋の源助柱
島根県立図書館の回答によると、慶長期、初代松江藩主堀尾吉晴の時代に、松江大橋の普請で工事が難航しました。そのため、源助という男を人身御供にした、という話です。
そこに建てられた柱は「源助柱」と呼ばれ、夜には鬼火が飛び交い、三百年の間びくともしなかった、とあります。
同じ回答によれば、この伝説の出典は『日本の面影』。「松江の七不思議」という括りは、資料の訳もしくは編集段階で付いた可能性がある、という指摘も添えられていました。ここでは島根県立図書館の回答に書かれている範囲だけを紹介します。
経ヶ島(神戸)
経ヶ島は、兵庫県立歴史博物館の「ひょうご伝説紀行」に載っています(兵庫県立歴史博物館 ひょうご伝説紀行「松王丸〜清盛の夢と神戸の海に沈んだ少年」)。島を築く話を、再話の形で載せたものです。
再話では、清盛が陰陽博士(おんみょうはかせ)に占わせます。占いの答えは「島を築くには、海中の竜神の怒りをしずめなくてはならない。そのためには、三十人の人柱を、海にしずめて竜神に供えるとよいだろう。」というものでした。これに対し、松王丸が「人柱などというむごいことは、おやめください。私が三十人の身代わりになりましょう。」と申し出る、という筋です。
松王丸は石の櫃に入れられ、白馬の背に乗せられて港へ運ばれました。千人の僧侶の読経の声がひびく中で、海に沈んでいきます。こうして波を防ぐための島が完成し、「築島」と呼ばれました。
たくさんのお経をしずめたので「経ヶ島」とも呼ばれ、清盛が松王丸をとむらうために建てた寺が、経島山来迎寺のはじまりだそうです。境内には、今でも松王丸の供養塔が残っている、との記述です。
ただ、この話には、食い違う記述があります。松江城の項で触れた南方熊楠は、『平家物語』には人柱を立てようと議したが、罪業を畏れて一切経を石の面に書いて築いたので「經の島」と名付けた、とあると記しています。博物館の再話では松王丸が海に沈みますが、熊楠が挙げる『平家物語』の記述は、人柱を立てなかった話です。
人柱を立てなかった話|那賀川の大井手用水堰と『平家物語』
人柱の話には、「立てようとしたが、立てなかった」という筋のものがあります。
国土交通省のページに、大井手用水堰の話があります(国土交通省 水管理・国土保全局「日本の川 那賀川」)。那賀川のかんがい事業で最も古いものとして、大井手用水堰(1674年)が挙げられています。
当時の堰は木杭に石を詰めた簡単なもので、洪水のたびに決壊と流失を繰り返していました。修築も難工事を極め、藩命を受けた佐藤良左衛門(2代目)は娘を人柱に立てようとします。しかし藩公からの使者がこれを止め、代わりに観世音を埋めたと「伝えられています」。
同じ段落の最後には、堰の現在の姿も書かれています。大井手用水堰は現在、上広瀬堰、下広瀬堰とともに統合され、北岸(ほくがん)堰となっているそうです。
ここまでに出てきた、人柱を立てなかった話は次の三つです。
- 那賀川の大井手用水堰では、人柱を止める使者が出て、代わりに観世音が埋められたと伝えられている
- 『平家物語』の経の島は、熊楠によれば、人柱を議したが一切経を書いた石で築いた話
- 茨田堤の衫子は、知恵を働かせて人柱にならずにすんだとされる
実話かどうかを、資料を出している側はどう書いているか
13件目は、一宮市の尾西歴史民俗資料館が紹介する人柱観音です(一宮市尾西歴史民俗資料館「人柱観音」)。起の金刀比羅神社の北側に立つ聖観音像です。江戸時代初頭の伊奈備前守の築堤工事で人柱になったという与三兵衛と、濃尾大橋工事で亡くなった3名の作業員も祀られ、昭和31年に開眼したそうです。
資料館は「なお、多くの人柱伝承は史実ではないことが多く、与三兵衛の人柱伝承も裏付ける史料はありません」と書いています。
ここまでの13件を、資料の書き方で五つに分けます。どの話も、いずれか一つに入る分け方です。
| 書き方 | 例(件数) | 資料に書かれていること |
|---|---|---|
| 人骨が見つかったと県と市が書く | 猿供養寺(新潟県・上越市)の1件 | 座禅を組んだ人骨が出て、伝説が事実だったとされた。年代・年齢の書き方は二つのページで違う |
| 裏づける史料は無いと書く | 彦五郎堤(上富田町)、人柱観音(一宮市)の2件 | 町は「史料的にこれを裏づけるものは残念ながら何も発見されていない」、資料館は「多くの人柱伝承は史実ではないことが多く、与三兵衛の人柱伝承も裏付ける史料はありません」と書く |
| 伝説・言い伝えとして紹介する | 茨田堤、松江城、松江大橋の源助柱、小峰城、府内城、雁堤、牛頸、経ヶ島の8件 | 「伝説として語り継がれています」「といわれる」「という伝説があります」「伝えられています」「といいます」など。大野城市は、成り立ちを十六参りと祭神から推測している |
| 市が人柱になった方と書く | 西念塚(伊達市)の1件 | 市は「人柱になった方です」と書く。供養祭も続いてきたとある |
| 人柱を立てなかった話 | 那賀川の大井手用水堰の1件 | 人柱を止める使者が出て、代わりに観世音を埋めたと伝えられている |
南方熊楠が1925年に書いたこと
人柱が実際にあったかどうかを巡っては、大正時代にも議論がありました。南方熊楠の「人柱の話」は、『變態心理』第十六巻第三号(1925年9月)が初出と、青空文庫の図書カードに記されています。
青空文庫の本文で熊楠は、日本で最も名高いのは「物をいふまい物ゆた故に、父は長柄の人柱」だと書いています。この記事では、長柄の人柱について、この一文以上のことは書きません。
熊楠は、人柱は無かったと言う学者にも反論しています。
書籍に見えぬから人柱抔全く無かつたなどいふが、是は日記にみえぬから吾子が自分の子でないといふに近い。
意味は、「書物に見えないから人柱など全く無かったと言うが、それは日記に書いていないから我が子が自分の子ではないと言うのに近い」ということです。熊楠は、書物に無いことを理由に、人柱を無かったと言い切る議論を戒めています。
今も残る碑・祠・供養の一覧
最後に、13件を一覧にします。「今残るもの」の欄は、各資料に書かれているものだけを入れています。資料に記載が無いものは、そのように書きました。
| 伝承名 | 所在地 | 今残るもの | 出典の発行者 |
|---|---|---|---|
| 茨田堤(強頸・衫子) | 寝屋川市 | 淀川堤防上の碑(昭和49年建立)、「太間」の地名 | 寝屋川市 |
| 西念法師 | 伊達市(川原町) | 「西念法師塚」の石碑、毎年4月8日の供養祭 | 伊達市 |
| 猿供養寺の旅僧 | 上越市(旧板倉町) | 人柱供養堂(平成4年に建て替え)、人骨、毎年7月の供養 | 新潟県、上越市 |
| 松江城の少女 | 松江 | 資料に残存するものの記載なし(伝説と禁令の記述のみ) | 島根県立図書館(国立国会図書館レファレンス協同データベース) |
| 松江大橋の源助柱 | 松江 | 資料に残存するものの記載なし(「源助柱」と呼ばれたという記述のみ) | 島根県立図書館(国立国会図書館レファレンス協同データベース) |
| 小峰城の藩士の娘 | 白河市 | 二代目「おとめ桜」(小峰城三重櫓の横) | 白河市 |
| 府内城のお宮 | 大分市 | お宮祠(天守台の西側の下)、毎年3月の供養祭 | 大分市 |
| 雁堤の老夫婦 | 富士市 | 護所神社内の人柱供養塔 | 富士市教育委員会 |
| 彦五郎堤の彦五郎 | 上富田町 | 彦五郎の石碑、「彦五郎堤防」の呼び名 | 上富田町 |
| 牛頸の十六歳の娘 | 大野城市 | 六地蔵の左手の祠(それだと言われている) | 大野城市 |
| 与三兵衛 | 一宮市(起) | 人柱観音(昭和31年に開眼) | 一宮市尾西歴史民俗資料館 |
| 経ヶ島の松王丸 | 神戸 | 経島山来迎寺の境内にある松王丸の供養塔、「経ヶ島」の呼び名 | 兵庫県立歴史博物館 |
| 大井手用水堰(立てなかった話) | 那賀川 | 現在は上広瀬堰・下広瀬堰とともに統合され北岸堰となっている(埋めたと伝えられる観世音が今あるかは、ページに記載なし) | 国土交通省 水管理・国土保全局 |
碑、祠、桜、地名は、資料の中では、その話が語り継がれてきたことを示すものとして載っています。猿供養寺の人骨については、新潟県が「伝説が本当のことであったことがわかり」、上越市が「伝説が事実であったことが証明され」と書いています。
各地の伝承を地図で見たい方は、都市伝説MAPが便利です。同じく各地の伝承を資料で確かめた記事として、禁足地の記事と夜泣き石の記事もどうぞ。工事と怪談という切り口では、トンネルの怪も参考になるはずです。
よくある質問
人柱は本当にあったのですか?
資料によって書き方が違うため、一律には言えません。新潟県と上越市は、猿供養寺で座禅を組んだ人骨が見つかり、伝説が事実と受け止められたと書いています。一方で上富田町の言葉は「史料的にこれを裏づけるものは残念ながら何も発見されていない」。一宮市の資料館も「多くの人柱伝承は史実ではないことが多く、与三兵衛の人柱伝承も裏付ける史料はありません」としています。
人柱を立てなかった話もありますか?
あります。国土交通省の資料には、那賀川の大井手用水堰で、娘を人柱に立てようとしたところを藩公の使者が止め、代わりに観世音を埋めたと伝えられる話が載っています。茨田堤の衫子も、人柱にならずにすんだとされる一人です。
人柱の供養は今も続いているのですか?
自治体のページには、供養祭の記述があります。大分市は、福寿院が毎年3月にお宮さん供養祭を行っていると書いています。伊達市では、川原町の人々が毎年4月8日に西念法師の供養祭を催してきたそうです。開催日などの最新の案内は、各自治体や主催者の発表で確認してください。
📝 免責事項
最終更新: 2026年10月13日。本記事は自治体・国・図書館・博物館などの公開資料をもとにした考察記事であり、個人の見解を含みます。※碑や祠の現況、供養祭の日程は変わる場合があるため、訪問前に各自治体・管理者の案内でご確認ください。
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