将門の首塚の祟りは本当?全国の首塚伝説を資料で検証

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将門の首塚とは|大手町に残る塚と神田明神

高層ビルに囲まれた小さな庭に置かれた大きな石と石灯籠
ビルの谷間の小さな庭と石を描いたイメージ(実在の将門塚ではありません)

将門の首塚の「祟り」は、公的な資料でも「噂」として書かれています。国税庁は、塚の取り壊しのあとに不幸が続いたことを紹介しつつ、祟りが事実かどうかは「確かめようもありません」としています。起きた出来事と、そこに付けられた意味を分けて読むのが、この話のいちばん確かな入り口です。

将門塚は、平安時代中期の豪族・平将門の首を供養するために建てられた石碑とされています(千代田区観光協会)。東京メトロ大手町駅から徒歩3分の場所です。

神田明神は、将門塚を「ご祭神・平将門命の御首を納めた墳墓」であり、400年前まで神田明神が鎮座していた旧蹟地でもあると説明しています(神田明神1300年事業)。同社の社伝では、創建は天平2年(730)、場所は現在の大手町・将門塚周辺です(江戸総鎮守 神田明神)。同社のページには、平将門命について「まさかど様。除災厄除の神様。」とあります。

塚そのものは、今の姿になるまでに手が入っています。

  • 神田明神によると、当初はこんもりとした塚と神池がありましたが、関東大震災で整地され、新たな姿の将門塚が造られて鎮魂祭が行われました。
  • 戦後は、神田明神と氏子企業を中心に結成された史蹟将門塚保存会が、昭和36年から5次の整備工事を行いました。
  • 第6次は創建1300年の記念事業として4年をかけ、令和3年4月26日に竣功しました(以上、神田明神1300年事業)。

千代田区観光協会は、13世紀になると首塚が荒廃し、将門の亡霊が怒って江戸の民を祟ったと「言い伝えられてきました」と書いています。ここでの祟りは、あくまで伝承の側の話です。全国の場所を地図で探したい方は、都市伝説ラボの都市伝説マップも参考にしてください。

「祟り」はどこまで記録にあるか|国税庁の書き方

国税庁の租税教育ページ「大手町の首塚」は、この土地と大蔵省の関わりを、次の順で説明しています(国税庁)。

  1. 明治7年に、内務省と合同の木造二階建ての新庁舎を建てた。
  2. 大正12(1923)年の関東大震災で庁舎が焼失した。
  3. 翌年、跡地に仮庁舎を建てる際に首塚が壊された。
  4. その後、大蔵大臣や工事部長が突然亡くなるなど不幸が続き、塚の取り壊しの祟りが噂されるようになった。

国税庁はこの祟りについて、「事実か否かは確かめようもありません」と書いています。そのうえで、次の2つを出来事として挙げています。

  • 昭和15(1940)年6月に、落雷による大蔵省庁舎の焼失を含む大手町官庁街の火災が起きた。
  • 太平洋戦争後、米軍が塚を整地しようとした時にブルドーザーの横転事故が起き、運転者が亡くなった。

つまり、公的資料で確認できるのは「壊された」「火災があった」「事故で亡くなった人がいた」という出来事です。それらを祟りと結びつけたのは噂だ、というのが資料の書き方です。

なお、神田明神は震災後に「整地され新たな姿の将門塚が造られた」と書き、千代田区観光協会と国税庁は「崩された」「壊された」と書いています。同じ出来事でも、発行者によって「整地」「崩された」「壊された」と言い方が分かれています。この言い方の違いも、話のタネになります。塚は現在も、東京国税局近くのビルの谷間(千代田区大手町1丁目)にあります(国税庁)。

首が飛んだ伝説と各地の首塚|将門・入鹿

将門の首には、もう一つ有名な話があります。千代田区観光協会は、将門の首が怨念によって故郷の東国へ向かって飛び、途中の土地に落ちたという伝説があると紹介しています。

各地に首の伝説が残る理由について、国税庁は次のように書いています。『俵藤太絵巻』には往来を行く将門の首の場面があり、このようなさらし首は将門が史上初めての例だったため、各地に伝説が残っていると「言われています」。

静岡県掛川市|平将門十九首塚

掛川市の観光サイトによると、天慶3年(940年)に藤原秀郷が将門一門19名を討伐し、その首を弔った塚と伝えられています。昔は19基ありましたが、時代とともに減り、将門のものと思われる大きな1基だけが残ったといわれています。その後、将門の首塚を取り囲むように18基が新しく作り直されました(掛川市)。

地元では首塚を町の守り神とし、彼岸と命日にあたる8月15日に供養祭が行われています。祟りを恐れる場所というより、供養が続いている場所として紹介されています。

滋賀県愛荘町|山塚古墳

愛荘町の観光ボランティアガイド案内には、石橋にある山塚古墳が「平将門の首塚として伝えられている古墳」とあります。この周辺には将門伝説が伝わる所が多いとも書かれています(愛荘町)。古墳が首塚として語られている点が、他の例と違います。

奈良県明日香村|蘇我入鹿の首塚

将門以外にも、首が飛んできたと語られる塚があります。明日香村の観光サイトによると、飛鳥寺の西側にある五輪塔は「入鹿の首塚」と呼ばれています。乙巳の変で暗殺された蘇我入鹿の首が、ここまで飛んできたという伝承があるそうです。

注意したいのは年代のずれです。同じ案内には、五輪塔自体は鎌倉時代または南北朝時代の建立と考えられている、とあります。乙巳の変の時代とは大きく離れているため、この塔は事件の当時のものではないと考えられます(明日香村観光サイト あすか時間)。

鬼の首塚|酒呑童子と関の太郎

首塚は人だけのものではありません。鬼の首を葬ったとされる塚もあります。

岐阜県御嵩町|関の太郎

岐阜県観光連盟の紹介によると、御嵩町の願興寺に残る寺記「大寺記」には、約800年前に鬼岩に関の太郎という鬼が住んでいたと伝えられています。近隣の村や町に降りて悪さをし、乱暴狼藉を極めたと言われています。

困り果てた町民たちが神様や仏様の力を借りることにすると、関の太郎は薬師如来の力で飛ぶことができなくなり、取り押さえられて討ち取られたといいます。討ち取られた首は、しばらくすると急に重くなって持てなくなったため、その場所に首を埋めて塚を作り、鬼の首塚としたそうです。現在でも首塚は残り、地元の方々によって守られています(岐阜県観光連盟)。

京都府|酒呑童子の首塚

亀岡市の公式ページには、丹波国と山城国の境にある大江山(大枝山)に酒呑童子の首塚がある、と書かれています(亀岡市)。

京都府の「京都・大江山に残る鬼伝説」では、頼光らが酒呑童子の首を見せしめとして都へ持ち帰ろうとしたものの、老の坂(現在の京都市西京区)で急に重くなって持ち上がらなくなり、その場で葬られたとされています(京都府)。

首が急に重くなり、その場に葬られるという筋は、関の太郎の話と共通しています。京都の怪異譚をまとめて読みたい方は、京都の都市伝説・民話まとめもどうぞ。

武将と戦死者の首塚|関ヶ原・畠山重忠・九鬼嘉隆

杉木立を背にした草地に立つ、四角い台と丸い石と笠を重ねた古い石塔
草地に立つ古い石塔を描いたイメージ(実在の首塚ではありません)

ここからは武将の首にまつわる塚です。埋葬や造営が資料に書かれているのは関ヶ原と九鬼嘉隆の塚で、畠山重忠の塚は「そう言われている」という伝聞の形で紹介されています。

岐阜県関ヶ原町|東西の首塚

岐阜県の公式ページによると、関ヶ原の首塚は領主の竹中氏が造ったもので、戦死者の首級を埋めた場所です。東首塚は陣場野本陣、井伊直政および松平忠告の陣跡に所在し、西首塚は梨子木川の西、現在の国道21号線北側に位置します(岐阜県)。

文化庁の「文化遺産オンライン」の史跡の解説(文語体)には、次のようにあります。東首塚は周囲五間・高さ五尺の円塚で、雑木が数株生え、塚のそばに碑石と標柱が建てられていました。西首塚は一小塚で、上に三本の老檜があり、前面に小さな観音堂が二つ残されていたとあります(文化庁)。

岐阜関ケ原古戦場記念館の大谷吉継のページでは、戦いの翌日に徳川家康から戦死者の処理などを命じられた竹中重門が、遺体を埋葬し、東西2か所に首塚を造営した、と説明されています。また、大谷吉継は最期を悟って家臣の湯浅五助に自分の首を隠すよう命じ、五助は見つかったあと、自分の首と引き換えに吉継の首を隠すことを願ったといいます。吉継の墓は藤堂家が建立したといわれています(岐阜関ケ原古戦場記念館)。

ここで首塚として書かれているのは、あくまで戦死者の首級を埋めた東西の塚です。吉継の首は隠された伝承と墓の話であり、「吉継の首塚」という塚が紹介されているわけではありません。

横浜市旭区|畠山重忠の首塚

横浜市旭区のページによると、区役所裏の小高い場所にある塚は、畠山重忠の首が祭られた所と言われています。「首塚」と書かれた標柱が目印です。そばには首を洗い清めたと言われる「首洗い井戸」がありましたが、現在はなくなっています。同じページには、重忠をはじめ一族郎党134騎を埋めたと伝えられる6つの塚もあります(横浜市旭区)。

三重県鳥羽市|九鬼嘉隆の首塚

観光三重によると、所在は鳥羽市答志町です。九鬼嘉隆の首は「鳥羽城の見えるところに埋めてくれ」という遺言のとおり、鳥羽城を一望できる築上山の山頂に埋葬されました(観光三重)。祟りの話ではなく、本人の遺言で場所が決まったという点が目を引きます。

民話として語られる首塚|横浜市港南区・下永谷

横浜市港南区の「ふるさと港南の昔ばなし50話」には、「首塚の亡霊」という話が載っています。民話の形で伝わっている話で、資料に載っているのはおおむね次の筋です。

  • 下永谷の村にある本城山から、夜になると苦しそうな、悲しそうな、すすり泣く声が聞こえてくる、といううわさ話が広がっていた。
  • 村を通りかかった念仏の行者に首塚の供養をしてもらったが、声はまだ聞こえた。
  • 江戸から有名な霊厳上人を招いて法要をしてもらうと、それ以来、声がなくなったという。
  • 戦国の時代、この山には北条氏直のとりでがあり、このとりでをめぐって、たくさんの人々が戦いをした。
  • 北条氏は多くの敵の首を切ってみせしめにし、そのあとで首を集めて塚に埋めた。

この話は、最後にこう結ばれています。殺された人たちの悲しく苦しい思い出が、村の人たちの間にこのような話として伝えられたのかもしれない、と(横浜市港南区)。

資料は、この話を断定せず「かもしれない」という推量の形で受けています。人柱にまつわる話を同じ見方で検証した記事に、人柱伝説は実話かがあります。

10か所の一覧|伝承か記録か

ここまでの10か所を、資料の書き方に沿って整理します。「伝承」は〜と伝えられる・言われる、「記録」は塚の造営や埋葬が資料に事実として書かれているものです。

場所 対象 区分 資料の書き方 出典
東京都千代田区(将門塚) 平将門 記録(祟りは噂) 首を納めた墳墓(神田明神)。震災後に整地または崩された。祟りは噂 神田明神・国税庁・千代田区観光協会
静岡県掛川市 平将門一門 伝承 藤原秀郷が弔った塚と伝えられる。供養祭あり 掛川市
滋賀県愛荘町 平将門 伝承 山塚古墳が首塚として伝えられる 愛荘町
奈良県明日香村 蘇我入鹿 伝承 首が飛んできたという伝承。五輪塔は鎌倉または南北朝時代の建立と考えられる 明日香村
岐阜県御嵩町 鬼(関の太郎) 伝承 寺記に伝わる話。塚は現在も残る 岐阜県観光連盟
京都府(老の坂・大江山) 酒呑童子 伝承 首塚があるとされ、その場で葬られたとされる 亀岡市・京都府
岐阜県関ヶ原町 戦死者 記録 領主竹中氏が造り、首級を埋めた場所 岐阜県・文化庁・岐阜関ケ原古戦場記念館
神奈川県横浜市旭区 畠山重忠 伝承 首が祭られた所と言われる 横浜市旭区
三重県鳥羽市 九鬼嘉隆 記録 遺言のとおり築上山山頂に埋葬 観光三重
神奈川県横浜市港南区(下永谷) 北条氏に討たれた人々 伝承(民話) 民話「首塚の亡霊」として伝わる 横浜市港南区

こうして並べると、祟りが語られているのは将門塚で、下永谷には亡霊の話が伝わっています。将門塚の祟りも公的資料は「噂」と書いています。記録として書かれているのは将門塚の改修や取り壊し、関ヶ原と九鬼嘉隆の埋葬で、掛川・愛荘・明日香・御嵩・京都・旭区の塚は「伝えられる」「言われる」という伝承の形です。

よくある質問

将門の首塚の祟りは本当ですか?

事実と断定できる資料はありません。国税庁は、塚の取り壊しのあとに不幸が続いたため祟りが噂されるようになった、と書いたうえで、真偽は「確かめようもありません」としています。昭和15年の火災や戦後の事故は出来事として挙げられていますが、祟りとの因果は示されていません。

将門塚は今も大手町にありますか?

あります。国税庁は、首塚が東京国税局近くのビルの谷間(千代田区大手町1丁目)に今も存在すると書いています。神田明神によると、令和3年4月26日に第6次の整備事業が竣功しました。

将門の首塚に行ってはいけない人はいますか?

国税庁・神田明神・千代田区観光協会の資料には、そうした記述はありません。各地の立入りに注意が必要な場所については、日本の禁足地まとめで整理しています。

なぜ各地に将門の首の伝説があるのですか?

国税庁は、将門のようなさらし首が史上初めての例だったため、首にまつわる伝説が各地に残っているものと「言われています」と書いています。『俵藤太絵巻』には往来を行く将門の首の場面があるそうです。

📝 免責事項

最終更新: 2026年10月20日。本記事は国・自治体・神社・観光協会などの公開資料をもとにした考察記事であり、個人の見解を含みます。※塚や碑の現況、供養祭の日程は変わる場合があるため、訪問前に各自治体・管理者の案内でご確認ください。

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